今回は日本の作曲家、すぎやまこういちをご紹介します。国民的テレビゲーム「ドラゴンクエスト」の音楽を手がけることで有名ですが、これまでどういった活動をしてきたのでしょうか?

あなたは、すぎやまこういちを知っていますか?

すぎやまこういちといえば、作曲家、編曲家、指揮者としてのイメージが強いですが、他にも日本作編曲家協会の常任理事や日本音楽著作権協会の評議員なども務める、音楽業界における重鎮です。88歳になった今も、音楽や音楽以外の活動も精力的にこなしています。

1931年4月11日、すぎやまこういちは東京府東京市下谷区(現在の台東区)に生まれました。音楽好きな両親、子守唄として賛美歌を唄っていた祖母に囲まれ、幼少から音楽に親しんで育ちました。

すぎやまこういちが作曲を始めたのは、いつ頃でしょうか?

小学生の頃

中学生の頃


正解は🕹



小学校時代のすぎやまこういちは、父の仕事の影響で転校が多く、1年生の時は東京、2?5年生の時は名古屋、6年生の時は千葉へと移り住みました。中学校は千葉で進学するも、太平洋戦争の影響で地方に疎開。帰京したのは終戦後でした。そんなすぎやまこういちが初めて作曲をしたのは、中学3年のときで「山のあなた」という詩にメロディーを付けたと話しています。

中学生になったすぎやまこういちは千葉の学校に進学するも、太平洋戦争の影響で地方に疎開。終戦後、帰京しましたが、帰京後は、食糧不足から壊血病になり死にかけたこともありました。当時は誰もが苦しい生活でした。そんな中でもすぎやまこういちとその家族には音楽がありました。

すぎやまこういちは何を元に独学で音楽を学んだでしょうか?

クラシックのレコード

ゲーム音楽


正解は🕹



当時、すぎやまこういちの父は焼け残った反物を持ってレコード屋に行き、ベートーヴェンのレコードやオーケストラの楽譜を物々交換で手に入れました。すぎやまこういちは父がもらってきた楽譜をもとに、クラシック音楽の勉強を重ねます。ちなみに、両親はゲーム好きでもあったため、すぎやまこういち自身も、物心がついた頃からゲーム好きでした。

東京都立武蔵中学校(現在の東京都立武蔵丘高等学校)の2年に編入したすぎやまこういち。同級生には青島幸男や砂田実がおり、青島幸男とは生涯の親友になりました。そして新制高校の第1期生として成蹊高等学校に進みます。

高校生になったすぎやまこういちは、どんな生活をおくっていたでしょうか?

ゲーム漬け

音楽漬け


正解は🕹



すぎやまこういちは高校に音楽部を創立します。3年の時には学内オーケストラの指揮と編曲を務めるなど、音楽漬けの日々を送ります。卒業が迫った頃には谷桃子バレエ団の依頼で、オペラ用に「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」を作曲、このオペラは何度も再演されました。

ピアノが弾けなかったことが1つの理由で、音楽大学進学を断念したすぎやまこういち。代わりに東京大学理科II類に進学するのですから驚きです。しかし学業には身が入りませんでした。3年になると、すぎやまこういちは教育学部教育心理学科へ傍系進学します。傍系進学とは簡単に言うと、所属学部と基本的な対応関係にない学部に進むことです。

すぎやまこういちが教育学部教育心理学科へ傍系進学した理由は何でしょう?

自由な時間が欲しかったから

教育する立場に憧れたから


正解は🕹



自由時間の確保という理由で傍系進学したすぎやまこういち。しかし、教官が授業にあまり出ないすぎやまこういちの顔を覚えており、テストを受けさせてもらえないなどしたため、結局は1年留年して卒業することになりました。

大学を卒業したすぎやまこういちは定職につきませんでしたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を、音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入ったことがきっかけで、文化放送に入社します。

1958年、すぎやまこういちが移籍した開局準備中のテレビ局はどこでしょう?

NHK

フジテレビ


正解は🕹



文化放送に入社したすぎやまこういちは1年報道部で務めた後、芸能部に移り、「日立コンサート」を担当しました。しかし「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」と判断し、1958年、当時開局準備中だったフジテレビに移籍します。

フジテレビに入社したすぎやまこういちは、ディレクターとして「おとなの漫画」を担当します。次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる「ザ・ヒットパレード」を企画しました。これらの番組はニュース性があるので確実にネタ切れはしないと、すぎやまこういちは考えていました。

「ザ・ヒットパレード」において、すぎやまこういち自身がテーマソングを作曲していた理由は何でしょう?

予算がなかったため

自身の曲を宣伝するため


正解は🕹



「ザ・ヒットパレード」が始まった当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、すぎやまこういち自身でテーマソングを作曲したりと苦心していました。1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても精力的に活動しますが、給料より作曲家としてのギャラの方が多くなってきた1965年4月にフジテレビを退社しました。

フジテレビ退社後のすぎやまこういちは、フリーのディレクターとしてフジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていましたが、1968年から作曲活動に専念するようになります。以後、作曲家としてザ・タイガースや、ザ・ピーナッツの黄金時代を支えました。

1970年代に入り、すぎやまこういちが多く手がけるようになった音楽は何でしょう?

映画音楽

特撮音楽


正解は🕹



1970年代に入ると、すぎやまこういちは数多くの特撮音楽やアニメ音楽を手がけます。さらに1980年代半ばになるとゲーム音楽の制作に注力します。1986年に「ドラゴンクエスト」の作曲を担当。「ドラゴンクエストの作曲家」となったすぎやまこういちは、これ以降、もっぱらゲーム作曲家として活動し、ゲーム以外の仕事は減らしていきます。

1987年以降、オーケストラへの興味が増したすぎやまこういちは、毎年オーケストラなどを率いて「ファミリークラシックコンサート」「ドラゴンクエストコンサート」などのコンサートを行い、近年では自ら指揮者として出演することも多くなりました。

2016年、すぎやまこういちが受賞したのは何でしょう?

ギネス世界記録

旭日小綬章


正解は🕹



2016年に行われた「第30回ファミリークラシックコンサート-ドラゴンクエストの世界-」中に、すぎやまこういちは「世界最高齢でゲーム音楽を作曲した作曲家」としてギネス世界記録をサプライズ受賞しました。2018年には旭日小綬章も受賞したすぎやまこういちは、現在でも音楽業界の最前線で活躍を続けています。

ドリームメール引用

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