今回は、江戸時代後期の思想家、農政家である、二宮尊徳についてご紹介します。日本全国の多数の小学校の校庭に銅像が建てられるなど、知名度の高い人物でありながら、その具体的な功績についてはあまり知られていません。一体、どのような生涯を送ったのでしょうか。

 

二宮 尊徳は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、有職読みで「そんとく」という読みで定着している。 ウィキペディア

あなたは、二宮尊徳を知っていますか?

母校の校庭や、施設の玄関脇に、薪を背負い、本を読みながら歩く姿をした銅像があったことを思い出す方も多いのではないでしょうか。彼は一体、どのような人物だったのでしょう。

二宮尊徳は1787年、現在の神奈川県小田原市で生まれました。百姓の家で、両親も優しく、尊徳は深い愛情を受けながら育ちます。しかし、5歳の時、二宮家に大打撃を与えるある出来事が起こります。それから、生活は苦しくなりました。

二宮尊徳が5歳のときに起こり、二宮家に大打撃を与えたある出来事とは何でしょうか?

大洪水

一家投獄

正解は🕹

二宮尊徳が生まれたばかりの頃は、父が養父から受け継いだ田畑と家があり、豊かだったそうです。しかし、尊徳が5歳の時、南関東を暴風が襲ったのです。酒匂川の堤が決壊し、尊徳らの住む一帯が濁流に押し流されます。家と田畑が壊滅的な打撃を受け、以降、家計は火の車となりました。

突然の災害に見舞われながらも、二宮家は必死に開墾し、田畑を復旧します。当然、復旧のために借財を抱えたので、一からの出直しとは行きません。マイナスからのスタートとなりました。尊徳もまた、貴重な戦力でした。ある時、父が眼病を患い、尊徳は自らが主導して、堤防の復旧等をしなくてはならなくなりました。この時、尊徳はまだ12歳でした。

14歳で父を亡くした尊徳が、一家を支えるためにやったことはどれでしょうか?

家事の手伝い

薪売りやワラジの製作と販売

正解は🕹

たったの14歳で、母と弟2人を支える大黒柱になってしまった二宮尊徳でしたが、彼はその役目をきちんとこなしていました。朝まだ暗いうちに薪を集め町で売り、昼は田畑を耕して、夜はワラジを作りました。それでも、生活には少しの余裕も無かったといいます。

更に二宮尊徳が16歳の時、母も他界してしまいます。弟たちは母の実家に、尊徳は伯父の家に寄宿することになりました。勉強熱心な尊徳は、寝る間も惜しんで読書をしていましたが、ある時、伯父は油の無駄遣いだとこの行動を非難するのでした。

油の無駄遣いと言われた尊徳がとった行動とは何でしょう?

よその家にお邪魔して本を読んだ

菜種を育て、交換して自ら油を手に入れた

正解は🕹

尊徳の伯父は多くの百姓と同じように、お百姓に学問はいらないと考えている人物でした。しかし尊徳は、油がもったいないと言われるや、油を手に入れてまた本を読みます。それでも文句を言われたため、尊徳はあの銅像のように、薪を背負いながら本を読むことになったのです。

伯父に小言を言われながらも、尊徳は真面目に伯父の家の農作業に勤しみます。一方で、荒地の復興にも力を注ぎ、二宮尊徳が20歳となる頃には、洪水で失われた実家の田畑と同じくらいの田畑を取り戻すことに成功するのです。

見事生家を立て直した尊徳。その手腕に着目し、新たな立て直し事業を依頼した人物は誰だったのでしょう?

伯父

小田原藩家老

正解は🕹

24歳となる頃には、二宮家は以前のように豊かになっていました。地主経営を行い、武家奉公人として、小田原藩家老・服部氏に仕え、家政の立て直しを依頼されました。尊徳はこれを見事に完遂。わずか5年で立て直し、一躍藩内でも有名になりました。

やがて尊徳の手腕が藩主の耳にも入ります。尊徳は、藩主・大久保忠真から、分家で旗本の宇津家の知行所、下野国桜町領の復興を命じられました。これまでにない大仕事です。二宮尊徳は36歳。「一家を廃して万家を興す」と言い、家財田畑を売り払って、妻子と不退転の大事業に望みます。

尊徳が桜町領の復興へ向かうと決まった時の待遇は、次のうちどれでしょう?

高五石二人扶持

高三十石十人扶持

正解は🕹

二宮尊徳は腕を見込まれ復興に向かいますが、その時の待遇は高五石二人扶持、加えて移動料50俵、仕度料200俵と50金ほどでした。尊徳は、自らの田畑を売った金額をこれに加え、難事業に挑むのです。

尊徳は桜町領で再建に着手しました。当初は、村民の抵抗が激しく、円滑には行かなかったようです。それでも挫けることなく、実情を把握することに務めます。治水を整備し、荒地に開墾を指示します。ある晩春、尊徳は茄子を食べた後、冷夏になると予想し、冷害に強い稗を植えることを推奨しました。結果、尊徳の指揮した桜町領では、天保の大飢饉でも餓死者が出なかったそうです。

茄子を食べた尊徳は、なぜ冷夏になると思ったのでしょうか?

茄子のへたがこびりついていたから

秋茄子の味がしたから

正解は🕹

尊徳は夏の前に食べた茄子が秋茄子の味だったことから、冷夏を予想します。結果としてこれが的中し、稗を育てたことがプラスに働き、桜町領は飢饉の被害を軽減することができました。それは尊徳の豊富な経験と、学習の成果でした。

二宮尊徳の手により、桜町領も順調に復興を果たしました。それらの方法は整理され、後に「桜町仕法」「報徳仕法」と呼ばれるようになります。二宮尊徳はその後も拝命し様々な村を訪れては復興を主導し、いくつも成功させて来ました。

二宮尊徳が生涯で立て直した村の数は、およそどれくらいと言われているでしょうか

100

600

正解は🕹

二宮尊徳は生涯で、およそ600もの村を復興させたと言うことです。勝海舟は一度二宮尊徳に会っていたようで、こんな事を言っています。「至って正直な人だったよ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例をおれはたしかにみたよ」

1856年、二宮尊徳は日光神領を回って、日光奉行の配下で「仕法」を施している最中でしたが、病を発し、現在の栃木県日光市で、70年の天寿を全うしました。尊徳が亡くなった後も、彼の作り上げた「仕法」は残り、多くの農村を復興に導いたそうです。

尊徳の弟子が著した尊徳の伝記があります。そのタイトルは何でしょう?

報徳記

倹約の日々

正解は🕹

二宮尊徳は経済と道徳の融和を訴え、社会への貢献がいずれ自らに還ってくると言う「報徳思想」を説いていました。弟子の著した伝記は「報徳記」と題され、尊徳の数々の逸話が収められています。尊徳は遺言で「余を葬るに分を越ゆることなかれ、墓石を立てることなかれ」と言っていますが、この遺言は守られず、墓は栃木県日光市の報徳二宮神社に建てられました。あるいはこれも、尊徳の貢献が、自身に還元された結果なのかもしれません。

ドリームメール引用

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