今回は、平安時代中期の歌人、和泉式部についてご紹介します。和歌の名人として「後六々撰」などに名を連ねた彼女ですが、その一方で様々な恋愛遍歴を持っていたことでも知られています。一体どのような生涯を送ったのでしょうか。

あなたは、和泉式部いずみ しぶき
を知っていますか?

百人一首の56番ということで、覚えている方も多いのではないでしょうか。情熱的な恋の歌を始め、印象的な数々の作品は、一体どのような人物が生み出したのでしょうか。

和泉式部は、天元元年、西暦で言うと、978年頃に生まれました。父は越前守・大江雅致で、母は越中守・平保衡の娘でした。大江家というのは学者の家系です。幼少から、学問であったり、和歌を学んだり、嗜む機会は多くあったものと思われます。

日本の元号が天元の時代、天皇は誰だったでしょう?

天元天皇

円融天皇


正解は🕹

和泉式部が生まれた時代、都は平安京にありました。芥川龍之介の小説でお馴染みの羅生門が、暴風雨で転倒したのもこの年号の時です。和泉式部はそんな時代、由緒正しい家に生まれました。

和泉式部は999年、最初の夫に連れ添い和泉国に行きました。和泉国とは、今で言うと大阪府の南部にあたります。生まれた年が天元元年頃とすると、だいたい二十歳になるかという時です。二人が和泉国に行ったのと同じころ、後の小式部内侍である娘を授かりました。

和泉式部と小式部内侍がともに選ばれている、鎌倉中期に成立した歌集のタイトルは何でしょう?

女房三十六人歌合

富嶽三十六景歌集


正解は🕹

和泉式部が二十歳程の時、この世に生を受けた小式部内侍。二人は親子で女房三十六人歌合に選ばれ、ともに「女房三十六歌仙」として知られることになります。親子ともども、恋多き女流歌人で美しい歌を詠みましたが、娘である小式部内侍は、和泉式部を残し先立ってしまいます。

最初の夫との関係は長く続かず、次に京に戻る頃にはもう別れていました。その後、冷泉天皇の第三皇子に好かれるという事件が起こります。和泉式部がいくら由緒正しい家柄の出身とは言え、相手が皇族となると話は別です。身分違いの恋に、親から思いもよらぬ扱いを受けるのでした。

身分違いの恋であることから、親が和泉式部に行ったこととは何でしょう?

身分偽装

勘当


正解は🕹

第三皇子に好かれると言うのは、名誉なことのように思えますが、ことは簡単に進みませんでした。身分の差から物笑いの種になり、両親からは勘当される事態となりました。惚れられただけでなく、結局は恋人同士のような関係であったようですが、そのおかげで和泉式部は散々な目にあうのでした。

和泉式部を愛した第三皇子が亡くなると、今度はその弟である、敦道親王という、やはり皇族から求愛を受けます。それほどに、和泉式部は魅力的な人物だったのでしょう。敦道親王は和泉式部を自分の屋敷に迎え入れてしまいます。そのようにして、身分の低い女性に熱を上げるあまり、なんと正妻が家出をしてしまったそうです。

和泉式部は敦道親王にも先立たれます。頼みの綱が居なくなった彼女は、次にどうしたのでしょうか?

浮世を離れ一人歌を作り続けた

宮廷に仕え始めた


正解は🕹

親からも勘当され、夫にも先立たれた和泉式部。本来なら行き場をなくしてさまよってもおかしくない事態です。しかし、彼女に手を差し伸べた人物が居ました。藤原道長です。

藤原道長は和泉式部を宮廷仕えとして迎え入れました。一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕を始めるのです。寄る辺のない立場から、一転して宮廷仕えという栄誉を授かった和泉式部。様々な人物による、彼女を評する文献が残されています。

藤原道長が和泉式部を指して述べたとされる呼び名は、次のうちどれでしょう?

おしゃべり鳥

浮かれ女


正解は🕹

道長は和泉式部の才能を評価していたのでしょう、辞めさせることなく仕えさせ続けていました。その一方、「浮かれ女」と厳しい言葉を浴びせています。和泉式部はそんな言われ方をしても、「あなたは夫でも恋人でもないでしょうに」と言う歌をすらすらと述べ、立ち去るほどの度胸があったそうです。

和泉式部について、あの紫式部もコメントしています。自身の日記の中で、和泉式部のことを「素行は良いとは言い難いものの、歌は素晴らしい」と言う内容の言葉を記しています。才能は褒めていますが、あまり良い印象を持っていないような書き方です。一方、清少納言との歌のやり取りも残されていますが、こちらとの関係は良好だったように見えます。

この頃書かれたとされる、敦道親王との恋の顛末を著した物語風の日記のタイトルは何でしょう?

和泉式部日記

猿源氏草紙


正解は🕹

和泉式部を知る手がかりとして、敦道親王との恋について描かれている物語風の日記「和泉式部日記」が残されています。しかし、この作品は和泉式部本人が書いたように作られた、別の誰かの作品である可能性があると言われています。

最初の夫との関係が消滅し、皇族と恋をして先立たれ、その弟から求愛を受けやはり先立たれ、それでも和泉式部はまだ恋をしました。次の相手は藤原保昌。仕えていた主人である彰子の父・藤原道長の家来でした。和泉式部はこの人物に、ある難しい要求を出すのです。

和泉式部が藤原保昌に要求したと言われていることは、次のうちどれでしょう?

私を皇族にして

紫宸殿から梅を一枝手折って来て


正解は🕹

ある時、和泉式部は藤原保昌に言いました。「紫宸殿から梅を一枝手折って来てほしい」。警備の厚い、儀式場の梅で、難しい注文です。和泉式部は歌の才能があり、美人だったそうですから、藤原保昌は必死で叶えました。見事願いを聞き叶えた藤原保昌を認め、和泉式部は彼と結婚をするのでした。

和泉式部の言動や動向がわかるのは、中年期までです。その後は、詳しい資料が残されていません。前述の小式部内侍に先立たれた後、悲しみに満ちた歌を詠みました。「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」子に先立たれた和泉式部は、仏教に帰依したと考えられています。残された孫の顔を見て、様々な思いが飛来したことでしょう。

和泉式部のお墓は、どこにあるでしょう?

一つもない

あちこちにある


正解は🕹

北端は岩手県、南に行けば佐賀県まで、和泉式部のお墓は日本のあちこちにあります。柳田國男によれば、式部の伝説を語り歩いた誓願寺の女性たちの名残だとされていますが、本当の墓所はそれらに紛れてもはやわかりません。彼女が生み出した歌は千年経った今も我々の心に響きます。もう千年経っても、きっとそれは変わらないはずです。

ドリームメール引用

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