今回は幕末に活躍した武士にして、新時代の明治を生きた政治家、板垣退助をご紹介します。「板垣死すとも自由は死せず」と言うセリフで有名な板垣退助ですが、どういった人生を歩んだ人物だったのでしょうか?

あなたは、板垣退助を知っていますか?

板垣退助は戊辰戦争において官軍の将であるにも関わらず、維新直後から賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉回復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主でした。明治政府内においても要職を歴任するなど、非常に優れた人物であったことが分かります。
天保8年4月17日(1837年5月21日)、板垣退助は土佐藩上士・乾正成の嫡男として、高知城下中島町で生まれました。乾家は、戦国時代の甲斐武田氏の重臣で、武田信虎、信玄の2代に仕えた板垣信方を祖とした家柄でした。

板垣退助の親戚にあたる人物は、どちらでしょうか?

坂本龍馬

中岡慎太郎

正解は🕹

板垣退助と坂本龍馬は親戚関係にあたるといわれています。坂本龍馬が桂小五郎に宛てた書簡には乾退助(板垣退助)を紹介する記述があったり、板垣退助も坂本龍馬の脱藩の赦免に奔走したりなど、面識があり互いに尊敬しあう関係であったようです。

安政3年(1856年)、板垣退助は高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命じられ、神田村に蟄居します。板垣退助は、ここで身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得ました。一時は家督相続すら危ぶまれましたが、父・乾正成の死後に家禄を220石に減ぜられて家督を相続。再び政治の表舞台に登場します。

文久元年(1861年)、留守居役兼軍備御用を仰付けられた板垣退助は、高知を出てどこへ向かったでしょうか?

京都

江戸

正解は🕹

江戸に到着した板垣退助は、文久2年(1862年)6月、他の土佐藩士たちと勤王を誓います。同年の10月17日には、藩主・山内容堂の御前において寺村道成と時勢について対論に及び、板垣退助は尊王攘夷を唱えました。
文久3年(1863年)の1月4日、板垣退助は高輪の薩摩藩邸で大久保一蔵(のちの大久保利通)に会いました。同年の1月11日には山内容堂に随行して、上洛の為に品川を出帆しますが、悪天候により下田港に漂着してしまいました。

坂本龍馬の脱藩についての協議のため、板垣退助が山内容堂の本陣に招聘した人物は誰でしょう?

勝海舟

桂小五郎

正解は🕹

文久3年(1863年)の1月4日、板垣退助は高輪の薩摩藩邸で大久保一蔵(のちの大久保利通)に会いました。同年の1月11日には山内容堂に随行して、上洛の為に品川を出帆しますが、悪天候により下田港に漂着してしまいました。

当時の土佐藩上士は公議政体論が主流でしたが、板垣退助は一貫して武力倒幕を主張していました。慶応3年(1867年)の5月21日には中岡慎太郎の仲介で薩摩藩の西郷吉之助(のちの西郷隆盛)らと武力討幕を議論し、「戦となれば、藩論の如何に拘らず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語りました。

西郷隆盛との議論の場で結ばれたものは、何でしょう?

薩長同盟

薩土密約

正解は🕹

薩土密約を結んだ板垣退助は、翌日には山内容堂へ拝謁し、時勢が武力討幕へ向かっていることを説いた上、江戸の土佐藩邸に水戸浪士の中村勇吉や相楽総三を独断で秘かに匿っている事実を告げます。慶応3年(1867年)の6月2日には土佐に帰国して藩の大監察に復職し、同年の7月22日には軍制改革を指令しました。

戊辰戦争においての板垣退助は、土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊の総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍しました。また、このタイミングで板垣退助は自身の姓を乾から板垣に復しました。

板垣退助が自身の姓を板垣に復した理由は何でしょう?

民衆の支持を得るため

功績が認められたため

正解は🕹

慶応4年(1868年)の2月14日、板垣退助は天領である甲府城を掌握目前の美濃大垣に向けて出発しました。ちょうどこの日は祖先・板垣信方の没後320年にあたったため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣家の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」という岩倉具視らの助言から、板垣氏に姓を復しました。

板垣退助が板垣姓に復したことが功を奏し、甲州勝沼の戦いでは大久保剛(後の大久保大和)の率いる新選組を撃破します。さらに江戸に転戦した際にも、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるなど、その効果は絶大なものでした。

板垣退助が甲州勝沼の戦いで撃破した大久保剛(後の大久保大和)とは誰でしょう?

大久保利通

近藤勇

正解は🕹

「大久保剛(後の大久保大和)」と言う名前は、幕府から「甲陽鎮撫」を命じられた近藤勇が、新選組を「甲陽鎮撫隊」と改名した時に用いていた変名でした。板垣退助はこの後も東北戦争において三春藩を無血開城させ、さらに二本松藩、仙台藩、会津藩などの攻略といった軍功によって、明治元年(1868年)の12月には藩陸軍総督となりました。

明治2年(1869年)、板垣退助は木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任します。明治3年(1870年)年には高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令、明治4年(1871年)には参議となりました。

明治6年(1873年)、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に世論が沸騰したことで、板垣退助が主張していたものは何でしょう?

征韓論

王政復古の大号令

正解は🕹

征韓論を率先して主張していた板垣退助でしたが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされました。これに激憤した板垣退助は西郷隆盛らと共に官職を辞し、在野に下ります。この出来事は、板垣退助と土佐派の官僚が「自由民権」を唱える契機となりました。

明治8年(1875年)、大阪会議によって参議に復帰した板垣退助でしたが、民衆の意見が容れられる議会制政治を目指し、間もなく再び辞任し、自由民権運動に身を投じました。明治14年(1881年)には、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)になりました。

明治15年(1882年)の4月、板垣退助が暴漢に襲われて負傷した事件は何でしょう?

紀尾井坂の変

岐阜事件

正解は🕹

明治15年(1882年)の4月、岐阜で遊説中だった板垣退助は暴漢に襲われ、負傷します。その際、板垣退助は出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わります。板垣退助はこの時に死亡したと思われがちですが、実際にはその37年後の大正8年(1919年)、82歳まで生涯を全うしました。

ドリームメール引用

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