今回はネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家、ヨハネス・フェルメール(本名:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト)をご紹介します。映像のような写実的な手法、綿密な空間構成、光による巧みな質感表現を持ち味としたフェルメールは、どのような人生を歩んだのでしょうか。

あなたは、フェルメールを知っていますか?

フェルメールは、レンブラント(オランダ)、カラヴァッジョ(イタリア)、ルーベンス(ベルギー)、ベラスケス(スペイン)と並ぶ、バロック絵画において代表的な画家の1人です。また、レンブラントと共に17世紀のオランダ黄金時代の代表画家でもありますが、現存する作品数が33?36点と、他の有名画家に比べて少ないことも特徴に挙げられます。

1632年、フェルメールはネーデルラント連邦共和国のデルフトに生まれました。父であるレイニエル・ヤンスゾーン・フォス(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)は絹織物職人を勤める一方でパブと宿屋を営んでおり、画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されていました。

フェルメールの父親の姓である「フォス(Vos)」とは、どんな意味でしょうか?

戦い


正解は🕹



フォス(Vos)は狐を意味しますが、フェルメールの父の改名の理由は分かっていません。また、改名されたファン・デル・メールという姓をフェルメールが「フェルメール」に短縮した理由も謎に包まれています。

1653年、フェルメールはカタリーナ・ボルネスという女性と結婚しました。結婚前はフェルメールの父に借金があったことや、フェルメールがカルヴァン派のプロテスタントなのに対してカタリーナがカトリックであったことから、当初はカタリーナの母に結婚を反対された末に、結ばれました。

新婚当初はメーヘレンで生活していたフェルメールが、ほどなくカタリーナの実家で生活を始めた理由はなんでしょう?

家族を養えないから

義母が孫と暮らしたかったから


正解は🕹



新婚当初こそメーヘレンで生活していたフェルメールでしたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な義母とともに暮らし始めます。フェルメールには15人の子供が生まれており、画業では養うことができなかったと言われ、15人のうち4人は夭折したものの、それでも大家族であり、裕福な義母に頼らざるを得なかったと思われます。

1655年、実家の家業を継いでパブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出したフェルメールは、その収入やパトロン、裕福な義母のおかげで、当時は純金と同じくらい高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用し、画業を続けていました。

パトロンとは、何でしょう?

後援者

上客


正解は🕹



パトロンとは、特定の芸術家、団体、主義などに対する経済的な後援者のことです。他にも支援者、賛助者、奨励者、または特権を持つ人や財政支援をする人のことを指します。フェルメールは家業による収入と義母による生活の支えに加え、こういった後援者からの援助により、画業に対して妥協することなく打ち込めたようです。

1657年、フェルメールは生涯最大のパトロンとなるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれます。デルフトの醸造業者であり投資家でもあったピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンはフェルメールを支え続け、フェルメールの作品も20点所持していました。

1670年代に入り、潤沢な資金に加え画家としての評価も高かったフェルメールが、不遇の時代を迎えることとなった原因はなんでしょう?

戦争

怠惰


正解は🕹



17世紀後半、第三次英蘭戦争が勃発したことで、オランダの国土は荒れ、経済は低迷します。またこの時期にフェルメールとは違った画風をとる若手画家が台頭し、フェルメールの人気も低迷します。さらにピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンが死去し、義母も戦争によってかつてほど裕福でなくなったことで、フェルメールは追い詰められていきます。

第三次英蘭戦争の勃発以降、フェルメールの作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることとなりました。当時、未成年の子どもを8人抱えていたフェルメールは、大量の負債を抱えてしまいます。

当時の未成年は何歳未満を指したでしょうか?

25歳未満

30歳未満


正解は🕹



フェルメールの子供のうち8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満)、フェルメールは大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回りましたが、とうとうやり繰りがつかなくなってしまいます。フェルメールは、1675年にデルフトで死去しました。正確な死亡日は記録に残っていませんが、42歳、または43歳という生涯でした。

生前から画家としての高い評価を得ていたフェルメールは、死後20年以上経った1696年の競売においても、その作品は高値が付けられていました。しかし、18世紀に入った途端に、フェルメールの名は急速に忘れられていくことになります。

フェルメールが忘れられていった要因の1つとして考えられるのは、どちらでしょうか?

作品が多すぎたから

作品が少なすぎたから


正解は🕹



フェルメールが忘れられていった理由としては、作品を少ししか作らなかったことと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったことが挙げられます。ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンという大きなパトロンを得ていたフェルメールは仕事をじっくり丁寧にこなせたことから、年間2、3作という寡作だったと言われています。

死後100年以上もの間忘れられていたフェルメールですが、19世紀に入ると再び脚光を浴びることとなります。フランス画壇においての新しい絵画の潮流により写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が再び人気を獲得し、フェルメールは高い評価と人気を勝ち得ることとなりました。

絵画の新潮流が始まる前のフランス画壇において、絵画はどのようなものを描くべきという考え方だったでしょうか?

日常的なもの

非日常的なもの


正解は🕹



絵画の新潮流が始まる前のフランス画壇において、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的でした。しかし、そんな考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーといった画家が出現し、新しい絵画の潮流が後の印象派誕生に繋がり、これらの影響でフェルメールは再び注目されていきます。

2018年、上野の森美術館でフェルメール展が開催されました。展覧会では、35点しかないとも言われるフェルメールの現存作品の中から過去最多の9点の作品が展示され、日本の美術展史上最大のフェルメール展となり、大盛況となりました。

2018年のフェルメール展でも展示された、フェルメールが風俗画家へ転向するきっかけとなった作品は何でしょう?

取り持ち女

最後の晩餐


正解は🕹



フェルメールが画家としてのキャリアをスタートした時は、最初期の作品「マリアとマルタの家のキリスト」に見られるような物語画家でした。しかし、1656年の年記がある「取り持ち女」の頃から風俗画家へ転向していったと言われています。400年近く昔に描かれたフェルメールの作品は時代を超えた日本の地でも、観る者を圧倒するパワーを秘めています。

ドリームメール引用

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