今回は音楽プロデューサーや作詞家など多彩な肩書を持つ、秋元康をご紹介します。時代ごとに一世を風靡することになるアイドルグループを手がけ、還暦を迎えた後も新たな挑戦を続ける秋元康ですが、どういった人生を歩んできているのでしょうか?

あなたは、秋元康を知っていますか?

秋元康はアイドルグループのプロデューサーと言うイメージが強いですが、他にも多くの有名ミュージシャンの作詞を手がける人物です。一見、成功者としての顔しか見えない秋元康ですが、現在の地位に上り詰めるまでどういった

経験を積んできているのでしょうか?

1958年、秋元康は東京都目黒区大橋でサラリーマン家庭の2人兄弟の長男として生まれました。幼少期から喘息を患ったため小学1年生の時に保谷市(現在の西東京市)へ引っ越し、中原小学校に入学します。在学中に開成中学を受験しますが、残念ながら合格することはできませんでした。

秋元康が開成中学を受験した理由は何でしょう?

官僚になりたかったから

医者になりたかったから

正解は🕹

高校2年生の冬、ニッポン放送の「せんだみつおの足かけ二日大進撃!」を聴いていた時に何気なく、せんだみつおを主人公にしたパロディ作品を書き上げ、同級生の薦めでニッポン放送に送りました。特に募集されていたわけではありませんでしたが、この作品は関係者の目に留まることになります。

秋元康が書いた作品は、何のパロディだったでしょうか?

源氏物語
平家物語


正解は🕹

「せんだみつおの足かけ二日大進撃!」には当時「せんみつ深夜劇場」という名作古典文学のパロディのコーナーがありました。秋元康がニッポン放送に作品を送ったところ、放送作家グループに所属していた奥山侊伸の目に留まります。これがキッカケで、その後はニッポン放送へ遊びに来るように言われ、出入りするうち奥山侊伸の弟子となり、放送作家グループに所属するようになりました。

中央大学文学部に入学した秋元康は、放送作家としての活動を始めていました。当初はアルバイト感覚で考えていた活動だったためか、秋元康自身は放送作家業で得た収入を「あぶく銭」と考えていました。しかし、実際は当時のサラリーマンの4倍近い収入を得ていたそうです。

放送作家業に物足りなさを感じ始めた秋元康が、ニッポン放送の社員に紹介されて始めた仕事は何でしょう?

作詞
アイドルのプロデュース


正解は🕹

放送作家業に対する物足りなさや、職業としての将来性に不安を感じていたところ、当時ニッポン放送の社員であった亀渕昭信(後の社長)からPMP(後のフジパシフィックミュージック)の朝妻一郎を紹介された秋元康は、それを機に作詞を手掛けるようになります。アニメの挿入歌で初めて作詞家としてクレジットされると、その後は多くのアーティストの作詞も手がけるようになっていきます。

「ザ・ベストテン」「オールナイト・フジ」といった高視聴率番組の構成を担当していた秋元康は、同時にTHE ALFEE、稲垣潤一、長渕剛といった現在でも大物と言われるアーティストの楽曲で作詞を手がけ、作詞家としても知名度を得るようになっていきます。

1985年、秋元康が楽曲を手がけた女性アイドルグループは何でしょうか?

おニャン子クラブ
AKB48


正解は🕹

おニャン子クラブの楽曲を手掛けていた秋元康は、メンバーを次々とソロデビューさせ、その際に全楽曲の作詞・プロデュースを担当しました。ただし、後に総合プロデューサーとして関わるAKB48とは異なり、おニャン子クラブは「夕やけニャンニャン」という番組が最初にありきで、自分はおニャン子クラブについては共同作業であって仕掛け人ではないと説明しています。

作詞家、プロデューサーといったイメージが強い秋元康ですが、他にも様々な分野で活躍しています。既出の放送作家以外にも、小説作品「象の背中」は産経新聞紙上に連載され、それを原作にした漫画・絵本・アニメ・映画・テレビドラマ作品まで存在します。

マルチな才能を示し続ける秋元康が失敗の連続をした業界は何でしょう?

アパレル
飲食


正解は🕹

1987年、秋元康は当時のタレントブームに便乗し、青山で「うんこや」という名前の和食パブを開いたことがあります。「食と排泄は切っても切れない関係ですからね、だからあえて…」という説明をするも短期間で閉店しており、他にも飲食店を開店したものの、どれも成功には至っていません。

1987年、秋元康は長者番付の「その他」部門で16位(納税額1億61万円)となりました。1988年にはおニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子と結婚、同時に渡米してニューヨークに1年半ほど滞在します。帰国後に美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」の作詞を担当したことで、作詞家としての地位を不動のものにしました。

作詞家としてデビューする前に、秋元康にダメ出しをした人物は誰でしょう?

阿久悠
やしきたかじん


正解は🕹

秋元康は、作詞家デビューの前に、相談も兼ねて歌詞をやしきたかじんに見せましたが、「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と、こき下ろされたそうです。しかし、その歌詞の中からヒットする作品が出ることとなり、やしきたかじんは「えらいことした。あの中からなんぼかもろといたらよかった」と話のタネにしていたそうです。

2005年、「秋葉原48プロジェクト」を発足した秋元康は、東京・秋葉原で女性アイドルグループ「AKB48」を立ち上げ、総合プロデューサーに就任しました。当初のAKB48は専用劇場で毎日公演を行う「アキバの萌えアイドル」といった地下アイドル的な位置付けでしたが、その後シングルCDにおいて100万枚を超える売り上げを記録するようになっていきます。

AKB48が標榜したキャッチコピーは何でしょう?

会いに行けるアイドル
週末ヒロイン


正解は🕹

当時の秋葉原は、書籍・ドラマ・映画などで社会現象を巻き起こしていた「電車男」において描かれた「美少女アニメ・ゲーム」「メイド喫茶」「リュックサックを背負ったオタク男性」のイメージで認識されていたため、秋元康自身もAKB48は地下アイドル的な位置付けと考えていました。しかし2008年から徐々に一般の人気を上げ、現在では国内外に姉妹グループを持つまでになりました。

日本の音楽業界において紛れもない成功者の一人として認識されている秋元康ですが、「サンデー毎日」の連載で「我々の仕事は不安定な上に潰しがきかない。我々のようなレベルの人間でもいつ仕事がなくなるか不安を抱いている」と述べています。

2007年、秋元康がテレビ番組内でコメントしたことは何でしょう

自分はシェークスピアにはなれない
自分はピカソにはなれない


正解は🕹

2007年9月30日に放送された「情熱大陸」において、秋元康は「自分は天才でもアーティストでも芸術家でもない。ピカソになりたい広告代理店マン。でもピカソになりたいと思った時点でピカソにはなれない」とコメントしています。いまや音楽業界において不動の地位を確立した秋元康も、決して特別な存在ではなく、同じ人間で、常に自分と戦っていることが、この言葉から分かります。

ドリームメール引用

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